“最高峰の彫刻家” 後編 ミケランジェロ 作『最後の審判』を鑑賞する
目次
作品概要
- 作品名 システィーナ礼拝堂天井画
- 画家 ミケランジェロ・ブオナローティ(1475年~1564年)
- 制作時期 1510年ごろ
ミケランジェロについて
概要
ミケランジェロ・ブオナローティは15~16世紀に活躍したイタリアの芸術家です。
ラファエロやダ・ヴィンチらと同じくルネサンスの最盛期を作り上げた巨匠であり、彫刻家としての活動以外にもフレスコ画や絵画、詩など多岐に活動しました。
加えてその全てが後世に大きな影響を与えたため、西洋美術史最高峰の芸術家と言われています。
生涯
メディチ家との縁
ミケランジェロが装飾を施した霊廟の完成を待たずしてユリウス2世は逝去します。
続く教皇はレオ10世であり、彼は少年だったミケランジェロの才能をいち早く育てた大恩人ロレンツォ・デ・メディチの次男でした。
レオ10世はミケランジェロに、長年中断していた一族の教会の建築再開と彫刻装飾を命じます。
ミケランジェロにとってはこれが建築家としての初仕事でしたが、レオ10世は彼を信頼し完成まで一任していたそうです。
一族としての信頼をミケランジェロに寄せていたのですね。
混乱の時代へ
しかしレオ10世は在任8年で急逝し、続くハドリアヌス6世も1年で死去します。
そして1527年(ミケランジェロ52歳)にスペイン王カルロス1世による“ローマの略奪”が起きました。
略奪後のフィレンツェの情勢は混乱し、メディチ家の追放→市民による共和制の復活→カルロス1世によるフィレンツェ陥落→メディチ家の復権と動乱が続きました。
ミケランジェロは始め要塞の建築などに携わるも、次第に辟易し、一時フィレンツェを離れています。
晩年
1540年初頭にフィレンツェに帰還したミケランジェロは、ユリウス2世の霊廟制作と並行して『最後の審判』の制作を行っています。
当初この壁画は多くの登場人物が裸で描かれていましたが、枢機卿を中心に反感を買ったため、ミケランジェロの死後に局部を隠されています。
生前も彼を指して猥褻美術家と皮肉を言う者もいましたが、ミケランジェロ自身は意に介していないと思われます。
71歳の時には、ラファエロらが死去したため制作が中断していたサン・ピエトロ寺院の改築に関わる仕事を命じられますが、ミケランジェロもまたこの完成を待たずして亡くなりました。
享年88歳。ルネサンスを支えた巨匠の中で最も長寿でした。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
ミケランジェロ・ブオナローティ作『最後の審判』です。
天井画同様にシスティーナ礼拝堂の壁画として制作を命じられた作品です。
世界の終末においてイエスキリストは復活し、同時に全ての魂を復活させ天国と地獄に振り分けます。
中央上段にキリストが、向かって左側には天国へ行く人々、右側には地獄へ落ちる人々が描かれていますね。
この作品には400を超える人が描かれており、それらはミケランジェロの計算した構図のもと配置されています。
ルネサンス芸術はこれをもって最盛期を迎え、ミケランジェロの弟子は、彼の死後に体系化した師の技術を“マニエラ”と呼び尊びました。
そしてこれを持たない過去の芸術家たちを否定し、そのために芸術の進化は止まってしまいます。
マニエリスムと呼ばれるこの時代は西洋芸術の暗黒期とされ、バロック様式が現れるまで絵画は衰退していたと言われていました。
ただし現在ではこの考えもまた否定され、マニエリスムは一つの芸術表現の一つとして評価されています。
システィーナ礼拝堂はヴァチカン市国にあります。
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